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伝統的な民家は「日本の住文化」の結晶ですⅢ
今回も独断と偏見で、旧暦のお話から、入らせていただきます。
冬至 乃東生ず(なつかれくさしょうず)
冬至(とうじ)
令和二年の昨日12月21日(月)は冬至の初日。一年でもっとも昼間が短く、夜が長い一日です。
正午の太陽の高さも一年でいちばん低くなることから、太陽の力がもっとも弱まる日とされてきました。
しかしそれは、裏を返せば明日から少しずつ日が長くなる=太陽の力が復活するということ。
そう考えた古(いにしえ)の人々は、冬至を意味深い特別な人して過ごしてきました。
柚子を浮かべた柚子湯に浸かる習慣も、その大切さのあらわれです。
端午の節句(たんごのせっく)の菖蒲(しょうぶ)湯のように、その芳香が邪気や穢(けがれ)を祓います。
力を取り戻した太陽が昇る明日の朝を、清らかな心身で迎えようというわけですね。
また、これから一段と厳しくなる冬の寒さを無事に乗り越えられるよう願いを込めて、「冬至に柚子湯に入ると風邪を引かない」という言い伝えが生まれたといわれています。
これから一段と厳しくなる冬の寒さを無事に乗り越えられるよう願いを込めて、「冬至に柚子湯に入ると風邪を引かない」という言い伝えが生まれたといわれています。
寒さに備えるといえば、カボチャも忘れてはいけません。こちらも冬至に食べれば、風邪を引かないとされています。
カボチャは夏から秋に収穫しますが、その保存性の高さはピカイチ。
野菜が不足する冬場に栄養価の高いカボチャを食べ、寒さを乗り切ろうという暮らしの知恵から生まれた風習です。
また、「ん」がつく食べ物を七種類食べると「運がつく」と縁起を担ぎ、ニンジンやギンナン、うどんなどを食べる地域もあるそうです。
また、もう一つ、以前にもお話しましたが、冬至には、古代中国で生まれた「一陽来復」という別名があります。
そして一陽来復は、「冬が去って春が来る」や「凶事がつづいたあとにようやく運が向いてくる」といった意味ももっています。
「まだ日も短いし、どんどん寒くなる」と考えるか、「明日から日脚が伸びて、そのたびに春も近づく」と考えるか。
やはり後者のほうが、日々健やかに過ごせるように思います。冬至はそんな暮らしのとらえ方すらも教えてくれている、といったら少し大袈裟でしょうか。
そして七十二候では冬至の初候が、乃東生ず(なつかれくさしょうず)。
薬草として重宝される靫草(うつぼぐさ)が生え出すころです。およそ十二月二十一日から二十五日までです。
伝統的な民家は「日本の住文化」の結晶ですⅢ
重要文化財指定民家
幾世代にもわたり風雪に耐えてきた日本の民家が、経済・社会構造や生活様式の変化のなかで取り壊され、失われようとしています
伝統的な日本の民家は、地元に育った木と地域の人々の技術で造られた住いであり、「日本の住文化」の結晶といえます
山中家住宅
所在地:高知県吾川郡いの町越裏門 指定物件:主屋 建設年代:18世紀中期頃 所有形態:私有
高知県吾川郡いの町越裏門(旧本川村越裏門)にあり、昭和47年(1972)重要文化財指定された。周辺は民家40戸程度が山合に点在する小部落です。
山中家住宅は山の南側斜面に高造りの屋敷構えで、日当たりを工夫しています。背面には防風林を有しています。この住宅には、 明和6年(1769)の位牌が残っていました。
そのことから江戸時代中期の建築と推定され、高知県で最も古い茅葺き寄せ棟造りの民間住宅といわれているのです。
住宅は当地の山間環境を考慮して、平野部の民家に見られる「土間」部分に替わる床板張りの「よま(余の間)」があります。 全体に部屋数が多く、6室あるのは物置(農作物の取入れ)を兼ね合せたためと思われます。
また炊事場を母屋内に設けないで、 谷間の水を利用する山間部独特の慣わしを受け継いでいます。
軸部材は総体に木割が太く、上質材を使用し、足固めに柱を貫通する腰組、差物や梁上中央に架けています。 平角断面の大梁の中重(なかじ・中地)等の構架、工法は土佐の古民家特有のものです。
住宅は建築されてから柱間装置、軸組の一部その他にも部分的な改造、改変がなされており、西側面に炊事場、 物入れ等を下屋として建て増しされていたが、全体としては建築当初の状態を留めています。
日本庭園の歴史と5人の歴史的作庭家
昭和時代と重森三玲(永遠のモダン)
昭和という新しい時代の日本庭園を創造しようと試みた人、それが重森三玲(1896~1975)という存在です。
日本の伝統的な庭園に新しい風を吹き込んだ重森三玲は、美術学校を出たのち、茶道やいけばなを通じて独学で日本庭園を学んだ異色の作庭家です。
特にそのデビュー作となった京都東福寺の方丈庭園は、日本庭園史上初めて市松デザインを取り入れ、大きな反響を引き起こしました。
反響は大きくふたつ、絶賛と批判でした。彫刻家のイサム・ノグチをはじめ、海外から高く評価される一方、日本庭園の伝統を重んじた保守的な人たちからは「寺という神聖な場所に西洋かぶれを持ち込んだ」「魂を西洋に売り渡した庭師」と揶揄されました。
しかし昭和11年から13年にかけて、日本初の全国古庭園400余をすべて実測および文献調査し、新たに『日本庭園史図鑑』を出版するなど日本庭園を知り尽くした三玲だからこそ、伝統という呪縛から解き放たれることが可能だったのです。
前述の市松デザインも、そのルーツになったものは江戸初期に造営された京都桂離宮の松琴亭(しょうきんてい)の襖であり、市松模様という日本の伝統を、三玲ならではの新しい発想で表現した結果であったのです。
忠実な伝統継承を尊重する一方で、新しいものを生み出す力、すなわち「創造」とは何でしょうか。三玲は未来永劫にわたってモダン(最新)であることを常に念頭において作庭しつづけました。
そのような「永遠のモダン」を目指した三玲の作品を通して、現在に生きる我々は新しい伝統の在り方を考えることができるのです。