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伝統的な民家は「日本の住文化」の結晶ですⅡ
今回も独断と偏見で、旧暦のお話から、入らせていただきます。
小雪 次候 朔風葉を払う(さくふうはをはらう)
風の落とし物
風に吹かれてひらりひらりと落ち葉が舞うようになってきました。
樹木の多い公園を歩けば、靴と落ち葉が擦れる音が賑やかに響きます。足元をよく見てみれば、松ぼっくりやドングリがあちこちに散らばってます。
きれいな松ぼっくりはクリスマスの飾りつけにちょうどいいですね。
汚れや虫を取り除くためにも2時間ほどたっぷりの水に浸し、しっかりと乾燥させてから使います。
そして、七十二候で小雪の次侯は .朔風葉をはらう(さくふうはをはらう)です。
朔風とは北風のことです。また、木枯らしのことをいい、冬の季語になっています。
朔風によって葉が落ちた木々は「冬木立」寒々とした姿が哀愁を誘います。
冷たい北風がこの葉を吹き払っていく、という冬ざれの情景をいう季節です。およそ十一月二十七日から十二月一日まで。
この時期にはさまざまな風の名前があります。
北風は、山からごうっと吹きおろす北寄りの寒風です。空(から)っ風は、山を越えて吹きつけてくる下降気流のことで、日本海側では吹雪、太平洋側では晴れ間に乾燥した強く冷たい季節風が吹きすさびます。
伝統的な民家は「日本の住文化」の結晶ですⅡ
幾世代にもわたり風雪に耐えてきた日本の民家が、経済・社会構造や生活様式の変化のなかで取り壊され、失われようとしています。
伝統的な日本の民家は、地元に育った木と地域の人々の技術で造られた住いであり、「日本の住文化」の結晶といえます。
重要文化財指定民家
平川家住宅(くど造り民家)
所在地:福岡県うきは市浮羽町田籠
指定物件:主屋、納屋
建設年代:18世紀末 文政3年、1820年に座敷増築(仏壇側板墨書あり)
特徴:前谷型の二つ家系の家、下手に納屋が並ぶ
所有形態:私有
平川家住宅は、上から見ると棟がコの字型をした「くど造り」と呼ばれる形式の民家です。
「くど造り」は筑後川流域から佐賀県にかけて見ることができる特徴的な民家の形態であり、平川家住宅はその中でもとりわけ規模の大きな家屋です。
正面から見ると、寄棟造妻入りの建物3棟が並んで建っているように見えます。
左側が納屋、中央が土間部、右側が床上部にあたる。土間部と床上部の屋根は前述の「くど造り」です。
さらに土間部の屋根と床上部の屋根の間の谷間になる部分には瓦製の雨樋があり、雨水が家屋前方に放出されるようになっているのが大きな特徴といえます。
床上部には下手に「ごぜん」「だいどこ」、上手に「ざしき」「なかなんど」「かわなんど」があります(「なんど」は現在の収納を指すものではなく、寝室の意味です)。
土間部は手前の「うちにわ」と奥の「おくにわ」に分かれ、「芋がま」や「大くど」が現在もそのまま残されています。
納屋の裏側には便所と風呂場があります。風呂と言っても湯船はなく、行水で行われていたようです。
平川家住宅の最初の建築は資料によって江戸時代中期とも後期とも言われていますが、建築当初は今より規模が小さく、「ざしき」「なかなんど」「かわなんど」の部分は増築されたものです。
「ざしき」の仏壇に文政3年(1820年)の墨書があり、「ざしき」部分の増築はこの時と推定されます。
平川家住宅は1971年(昭和46年)に、主屋と納屋が国の重要文化財に指定されました。
驚いたことに現在も住居として利用されていますが、見学することもできます。
日本庭園の歴史と5人の歴史的作庭家
明治時代と小川治兵衛(西洋文明との出会い)
江戸幕府が倒れ、文明開化の波で日本の伝統文化は大転換を強いられました。もちろん庭園も例外ではなかったのです。そんな近代の庭園をリードしたのは、明治の元勲や新興の実業家たちでした。
彼らは西洋諸国の文化を目のあたりにし、大きなカルチャーショックを受け、江戸以降マンネリ化した日本庭園に改革をもたらしました。
なかでもひときわ近代日本庭園史に名を残すのが、元勲・山県有朋が七代目小川治兵衛(写真)(1860~1933)に作らせた「無鄰菴(むりんあん)」です。
「無鄰菴」の作庭には最初から有朋の奔放な注文がつけられました。まず“もみ”を50本ほど入れよと命じます。京都の作庭に“もみ”などという樹は、決して用いられなかったそうです。
やっと“もみ”の若木を探して来たところ、次に“どうだん(ドウダンツツジ)”や“柊南天”を入れよと言われます。これらの植木を用いたのは、ここが始めてだと後年植治は述懐しています。
また、松のような金のかかる樹は極度にさけています。そして明治23年(1890)に完成した琵琶湖疎水から引き込んだ水の流れが、庭に豊かな表情を与えています。
このように「無鄰菴」は財を費やすこと少なく、極度に無駄を省いて立派に仕上げた庭園で、この造園の奥義をたちまちに良くのみこんで、のちの仕事を活かしたのが植治でした。
さらにこの庭園では、苔に代わって芝生が一面を覆い、西洋庭園の雰囲気を漂わせています。芝生を使った日本庭園も「無鄰菴」が最初であり、日本庭園はその後園遊会などの行事をとりおこなう公式の場としても、活躍するようになります。