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伝統的な民家は『日本住文化』の結晶ですⅧ

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今回も独断と偏見で旧暦のお話から入らせていただきます。

夏至 初候 乃東枯る(なつくさかれる)

鮎の天ぷら

六月から鮎釣りが解禁になって、ちょっと飲みに行けば、メニューに鮎の文字を見かけることが多くなってきます。

蕎麦屋の店先などに、鮎のてんぷらそばなんてお品書きをだされた日にはたまりません。

琵琶湖の鮎をさんしょうなどと煮た料理は、滋賀県の名産品だといいます。さぞビールも冷酒もすすむことでしょう。

ちなみに、自分はアルコールが苦手なので、鮎の塩焼きだけであとは、ご飯があれば十分です。幸せです。

北海道から、九州まで昔から愛されてきた川魚だからこそ、きれいな川を守って子々孫々にまで旬の喜びを伝えていけたらと願うものです。

鮎はそんなに骨も太くないので、頭から腹わたごと、骨ごと食べられますよ。

最初は抵抗あるかもしれませんが、慣れてくるとその味にはなんともいえない醍醐味がありますよ。

伝統的な民家は『日本住文化』の結晶ですⅧ

重要文化財指定民家 大角家(おおすみけ)住宅

幾世代にもわたり風雪に耐えてきた日本の民家が、社会構造や生活様式の変化のなかで取り壊され、失われようとしています。
伝統的な日本の民家は、地元に育った木と地域の人々の技術で造られた住いであり、「日本の住文化」の結晶といっても過言ではありません。
このような古民家住宅は、失われてしまってからでは、二度と再生することはできないのです。

今回は、その住文化の代表でもある、重要文化財指定民家 「大角(おおすみ)家住宅」をご紹介したいと思います。

大角家住宅床の間

大角(おおすみ)家住宅

所在地:滋賀県栗東市六地蔵

指定物件:店舗、製薬場、台所及び居間(主屋)、玄関及び座敷、正門、隠居所となっています。

建設年代:17世紀後期  特徴等:東海道に面する製薬業の町家兼小休本陣です。

所有形態:私有です。

大角家住宅外観スケッチ六地蔵は草津宿と石部宿の中間に位置し東海道の間(あい)の宿として栄えた集落です。
大角家は屋号を「ぜさいや」といい、「和中散本舗」と称して製薬販売を業とし、大名などが休憩する本陣を兼ねていました。

大角家は旧東海道が東北から西南に向かう街道の両側に敷地があり、東南側の敷地には街道に面して主屋と正門、奥には座敷や土蔵、物置、茶室等があり、街道の向かい側には馬繋ぎが建ち、その奥に隠居所と薬師堂があります。

そして屋敷全体が「旧和中散本舗」の名称で史跡に指定されています。

主屋は切妻造り・本瓦葺及び桟瓦葺で両妻の壁を立上げて屋根をより高くし、この上にも瓦を葺いて卯建(うだつ)を備えた造りとなっています。
建物の規模が大きく妻の白壁面積が大きい独特の風格を持っているのが特徴です。

大角家住宅外観

住まいかた教室

家族の形態と住まい 「いろいろな家族」

戦前の家父長制

第二次世界大戦が終わるまでの日本は、長男が代々家を継いでゆくという「家父長制(かふちょうせい)」という仕組みがありました。

その家族は、「家」の中心の家長の長男(お父さん)がいて、その妻(お母さん)と子ども、お祖父さんとお祖母さんという3世代にわたるものが一般的なかたちとなっていました。

さらに、長男の兄弟姉妹などと一緒に暮らすこともあったり、兄弟の数も平均で4人以上と多かったため、大家族だったのです。

住まい方教室また、当時は、たいてい農業や漁業、商業をしていて、会社勤めのお父さんはあまり多くありませんでした。

お父さんに限らず、家族みんなが協力して、ものを作ったり、売ったりして仕事をしていたのです。
子どもは、このような暮らしの基本である「家」の大切な跡継ぎでした。
それぞれの「家」では家系を絶やさないように、なるべく多くの子どもを育てたのです。

お祖父さんやおばさんなど、いろいろな年代の家族がいる家では、暮らしの知恵や作法が引き継がれ、子どもたちのしつけや学びの場として、重要な場となっていました。

親子だけの「核家族」

戦後は「家父長制(かふちょうせい)」の仕組みがなくなり、一人ひとりの個人を尊重する社会を目指すことになります。

そして、1950年代以降の高度経済成長のもとで、農漁業にたずさわる人が減り、製造業やサービス業の仕事が急増してきます。

この変化は、人の働き方や家族のあり方も一変させました。
これまでは家族みんなが協力して家計を支えていましたが、お父さんひとりが会社へ行って働き、その給料で家族みんなが生活するというかたちになったのです。

そして、お母さんは家事や育児など、家の中の仕事に専念するようになりました。
また、都会の会社に勤める男の人は、会社に通いやすい場所に移り住み、それぞれがひとつの家族をもったのです。

こんな風にお父さんがサラリーマンとなって働く家族では、仕事を子に継がせる必要はなくなり、自然と子どもの数も減りました。
このような1組の夫婦とまだ結婚していない子どもだけの家族を核家族と呼びます。

戦後30年を経た1975年には、日本の人口が増えているにも関わらず、ひと家族あたりの人数は減っていき、核家族は全体の約6割に達しました。

by株式会社 大東建設 阿部正昭

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