BLOG
ブログ
[昔の家 風土とともに歩んできた日本の民家「温故知新」2]
今回も独断と偏見で旧暦のお話から入らせていただきます。
小雪 次候 朔風葉を払う(さくふうはをはらう)
「すき焼き」の語源は?
さほど重要ではないかもしれませんが、「すき焼き」の語源は?なんでしょう⁇
「誕生日は何が食べたい?」と聞かれると、年の離れた妹は、決まって「すき焼き!」と答えていました。
幼い妹にとって、すき焼きはこの世で最上のごちそうで、「誰もが好きだからすき焼き」と信じ込んでいたみたいです。
語源に「かつて農耕具の鋤(すき)を鍋代わりに用いていたから」や「肉をすき身にするから」といった説があると知ったとき、相当驚いたようでした。
そもそも「すき焼き」の名前は関西発祥のようです。関東では肉食が解禁となった明治時代、「牛鍋」の名で広まっていましたが、関東大震災の復興時に関西の「すき焼き」が進出。以来、すき焼きが全国的に定着したといわれています
[昔の家 風土とともに歩んできた日本の民家「温故知新」2]
江戸時代から太平洋戦争の戦前までに農村などで建てられた民家には、土間や縁側があり、屋根は茅葺き(かやぶき)が一般的だったのです。
ただし、昔の家といっても、もちろん地域によって風土や風習が異なるため、形もさまざまです。
あまりにも有名なのは世界遺産にもなっている岐阜県や富山県の豪雪地帯にある合掌造り(がっしょうづくり)です。
急勾配の屋根で雪を落とし、屋根の内側には何層もの蚕(かいこ)棚が造られていました。
間取りでいうと、農家は土間と今家中の間、仏間などの部屋が繋がる田の字型が一般的でした。
一方では、京都の町屋などは店と住居が一体になった造りで、「通り庭」と呼ばれる土間がありました。
戦後の技術の進歩によって新建材や設備機器などが登場し、私たちに新しい住環境が提供されることになりました。
間取りも個室重視へと変化してきたのです。ですが私は昔の家に学ぶことが数多くあると考えています。
それどころか、現在の家の問題点を解決してくれるヒントがたくさん含まれていると考えています。
長い年月の経験が詰まった先人の豊富知恵を生かさない手はないと思っています。
*************
【古(いにしえ)の家の典型的な例】
[日本の代表的な古の民家の形と間取りについて考えてみます]
【農家】
茅葺きの屋根が特徴の農家は、玄関を入ると広い土間があり、炊事のほか、農具の手入れなども行われていました。
土間に面して囲炉裏の部屋があります。細長い縁側もありました。
【町屋】
間口の広さによって税金が課され変わっていたため、間口を狭く、奥行きが長く広くしたのが町屋なのです。
あまりにも知名度が高く代表的なのが京都の町屋です。手前に店があり、玄関、台所、奥の間と、裏の庭まで続いていました。
【合掌造り(がっしょうづくり)】
岐阜県や富山県にあり、雪国らしい急角度の屋根が手のひらを合わせたように見えることからこの名前になったといわれています。
屋根裏部屋の2?4階に蚕棚(かいこだな)を設け、蚕(かいこ)を飼っていました。
「お蚕さま」と呼ばれ、なにより大切に育てられ飼われていました。
(合掌造り)
【田の字の間取り】
柱を軸に4つの部屋が、田の字型に繋がる農家の一般的な間取り。建具を開ければ大空間にもなり、多用途の使い道が可能とされてきました。
土間には竈門(かまど)があり、牛や馬も飼われていました。「ダイドコ」は家族が食事をとる場です。
「デイ」は客間で、「ナンド」は寝室として使われていました。「オクノマ」は冠婚葬祭などパブリック的な部屋として使われていました。
(田の字の間取り)
【町屋の間取り】
表から裏までの「通り庭」と呼ばれる土間で繋がった京都町屋の一階の間取りです。
通り庭から各部屋に直接入れるのが便利で魅力的な点だと思います。また一方、通り庭の中に設けられた炊事場が火事の中枢となり、すべての生活の中心となっています。
出典/京都町屋資料館
図(京都町屋の間取り)
参考までに、重要文化財に指定されている古民家住宅を紹介させていただきます。
伝統的な民家は『日本住文化』の結晶ですⅦ【町井家住宅】
重要文化財指定民家【町井家住宅】
幾世代にもわたり風雪に耐えてきた日本の民家が、
経済・社会構造や生活様式の変化のなかで取り壊され、失われようとしています。
伝統的な日本の民家は、地元に育った木と地域の人々の技術で造られた住いであり、
「日本の住文化」の結晶といえます。
町井(まちい)家住宅
所在地:三重県伊賀市桝川 指定物件:主屋・書院 建設年代:主屋・延享元年(1744年)
特徴等:大庄屋の瓦葺民家で豪壮な梁組と洗練された室内意匠 所有形態:私有
構造形式:桁行15.2m、梁間13.2m、入母屋造、桟瓦葺、南面庇本瓦葺、西面突出部附属
町井家は武家の出身で天和2年(1682年)に現在の地に移り屋敷を構え、その後大庄屋を勤めました。
主屋は棟札より延享元年(1774年)、西側の客座敷は江戸時代後期の建築と考えられますが、建物は半解体修理の結果、江戸時代末期頃の姿に復元整備がされているようです。
主屋は南に面し入母屋造り・桟瓦葺・南面庇本瓦葺で、居室部は豪快な土間に接して3室を2列に配する整形六間取りとなっています。
三重県で六間取りは大庄屋に限られ、四間取りから発展した構成と考えることが出来きます。
書院は主屋西の式台付ゲンカン上手にツギノマ・ザシキが全体としては鍵型に連なり、主屋とは2畳の廊下でつながります。
この住宅は瓦葺の民家としては近畿地方でも古い部類に入ります。