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伝統的な民家は「日本の住文化」の結晶です
今回も独断と偏見で、旧暦のお話から、入らせていただきます。
寒露 初候 🦆鴻雁来る(がんきたる)
寒露
今日から二十四節気は「寒露」。秋も深まり、草木に降りる露もいつの間にか冷たさを増している、というのがその名のいわれです。朝夕の冷え込みも、涼しさというよりは肌寒さを感じるようになります。
秋晴れの空には、日本で冬を過ごすために北国から続々と渡ってきた冬鳥の姿が見えます。マガンやヒシクイの飛来地として知られる北海道美唄(びばい)市の宮島沼や宮城県栗原市の伊豆沼は、日を追うごとに鳥たちの声で賑やかに。
各地の公園の池などで優雅に泳ぐマガモやコガモ、ヒドリガモなども長い旅を乗り越えて日本にやってきた冬鳥です。
寒露に入り、七十二候の最初の候は、鴻雁来る(がんきたる)。
鴻雁と書いて、がんと読むらしいのです。どうも、このころの「かも=がん」は、わたしたちたちが思っている「かも」よりも少し大型で首が長いものをいっているのかもしれません。北から雁が渡って来るころという意味で、およそ十月八日から十二日ごろまでの季節です。その年最初に渡ってくる雁を、初雁といいます。
中秋のこの時季に、かりがね寒き、という季語がありますが、これは雁が渡ってくる時期の寒さを指します。かりがねとは、雁が音(かりがね)。つまり、雁の羽ばたく音のことです。秋深まる空に、かりがねが聞こえてくる情景が思い浮かびますが、音と寒さが結びついた不思議な言葉ですね。
音も寒さも一言で表してしまう日本語というか、大和言葉はやはりすごいですね。世界で一番難しい言語とされるのも分かりますね*ˊᵕˋ)੭
伝統的な民家は「日本の住文化」の結晶です
重要文化財指定民家
幾世代にもわたり風雪に耐えてきた民家が、生活様式などの変化のなかで取り壊され、失われようとしています。
伝統的な民家は、地元に育った木と地域の人々の技術で造られた住いであり、「日本の住文化」の結晶といえます。
伝統的な古民家は、現在では、無くしてしまった多くの貴重なものを教え、気付かせてくれます。
平山家住宅
- 所在地:青森県五所川原市湊 指定物件:主屋、表門 建設年代:主屋=明和6年(1769年)、平山日記
- 特徴:長大で洗練された上層農家 所有形態:五所川原市
平山家は、正保2年(1645年)に旧湊村が開かれる以前からこの地に住み、代々庄屋や代官所手代を勤め、幕末には大庄屋を務めた家柄です。
主屋は南面し、寄棟造り・茅葺・桁行17間・梁間3間の建物で広い前庭をとっており、西側を上手として玄関を切妻に突出させ、周囲に縁を設けて田の字型に座敷や居間があります。土間には大きく張り出した板張りの台所と広大な土間、その東は7房の馬屋となっています。
表門は津軽藩に対する数々の功労により天保元年(1830年)6代目半左衛門のとき藩侯から特別に許可され建てたもの。
日本庭園の歴史と5人の歴史的作庭家
桃山/江戸時代と千利休(茶の湯のひろがり)
戦乱の世が豊臣秀吉によって統一され、権力者の力を誇示するような豪華な庭園が再び作られるようになった一方で、露地(ろじ)という小さな庭が誕生しました。
露地は茶事に招かれた客が茶室に至る道程です。その道は決して平坦ではなく、山あり、谷ありの深山を行く道。道の中ほどで、主人が迎えに来てくれます。
わずかな起伏が険しい山道をあらわし、踏み石をひとつ越えただけで数里の道を進んだことになります。これを庭の世界では見立てといい、露地はすべて見立ての約束事で成立します。
この露地を確立したのが、茶の湯を大成した千利休(利休居士)(1522~1591)です。
利休居士は、庭をそれまでの海の風景表現から深山の趣に変え、庭園表現にあらたな新境地を開きました。茶は「侘び茶」と呼ばれているように、理想の環境を「市中の山居」であるとしました。田園的・山間的情趣を表現の主題に、茶室は農家の藁屋を、茶庭は山寺への道の趣を表そうとしたのです。
鮮やかな色の石は避け、石組をせず石は一つしか使わず、苔むした石が好まれます。山間の風情を思わせるような樹木を選び、実のなる木や花のなる木は持ち込みません。
また、客を迎え入れる当日は打水をもって清めるという心配りも見逃せません。
それは心の安らぎと清浄無垢な世界をつくりあげるのに一役も二役も買っています。自然素材と語り合いながら、大地からのメッセージを受け止めていく素直さは、日本庭園が確立した平安時代以降脈々と受け継がれてきた、まさに日本人の感性と美意識そのものなのです。