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【増改築の落とし穴】(間違いだらけのリフォーム②)
今回も独断と偏見で旧暦のお話から入らせていただきます。
夏至(げし)次候 菖蒲華さく(あやめはなさく)
備前ばら寿司
昔から受け継がれてきたハレの日の料理のひとつに、岡山県の「備前ばら寿司」があります。
酢飯の上に金糸玉子やシイタケ、レンコン、ママカリ、エビなどを彩りよく載せたごちそうで、家庭や地域によって具材が変わります。
この料理が誕生したきっかけは、江戸時代のお殿様が出した「食事は一汁一菜とする」というお触れだとか。
せめてハレの日ぐらいはごちそうをと考えた人々が、寿司の具を酢飯の下に隠して盛り付けたのがルーツとされ、「隠し寿司」とも呼ばれているそうです。
岡山の海の幸や山の幸とともに、明るくたくましい庶民の知恵もいただける郷土料理です。
・今日をたのしむ
【菖蒲華さく(あやめはなさく)】
東北や北海道ではアヤメが見頃。宮城県の「多賀城跡あやめまつり」や北海道の「あっけしあやめまつり」は多くの人で賑わいます。
【ちらし寿司の日】
備前ばら寿司が誕生するきっかけとなった「一汁一菜のお触れ」を出したとされる備前岡山初代藩主・池田光政(みつまさ)の命日が6月27日であることにちなんで制定。
お触を出したのは6代・池田斉政(なりまさ)とする説もあります。
【増改築の落とし穴】(間違いだらけのリフォーム②)
【新築と増改築(リフォーム)の違い】
増改築は新築と違い、「必要な時に、必要な部分だけを手を入れればいい」といった、何といっても気安さが魅力です。ですが、おいしそうなエサの傍(そば)には、美味しければ美味しそうなほど危険な落とし穴が待ち受けているものです。
たとえばあなたは、大きな古い病院で迷子になったことはありませんか。あるいは廊下を歩いていて、突然、段差にガクンと脚が落ち込んだことはありませんか。そういう私は極度な方向音痴のためか、自分の部屋に帰れなくなったことが、数知れずです。
もとからあった本館に継ぎ足し、継ぎ足しでつくられた新館に行くには、迷路のように入り組んだ暗い廊下を歩かなければなりません。あちこち、いたる所に階段があるのは便利そうだけど、上がってみたら自分がどこに来たのか、さっぱり分らない……。
そんな時に地震や火事などの災害が起きてしまったら大変です。そんな偶然起こるはずがないと思っているかもしれませんが、東日本大震災では、1000年に一度の災害など、だれもが起こるはずないと思っていたのではないでしょうか?
なので、笑い事ではないのです。住宅だって同じことが起こります。増改築を繰り返すうちに、いつの間にか部屋が増えてしまい、最後には、とうとう敷地一杯になってしまい建て直すしかなくなってしまった家。
私はそんな家をたくさん見てきました。
いったいなぜそんなことになってしまったのでしょう。
「必要に応じてあちこち少しずつ手を入れていったら、気が付いたら収拾(しゅうしゅう)がつかなくなってしまった…」
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【増築を繰り返していたら、行き詰ってしまった家】
[影の部分が最初の建売住宅の間取りです。家族が1人増え、2人増えして狭くなり、次々と子ども部屋を増築し、さらに親の寝室を増築した結果、LDKと和室にほとんど日が入らなくなり、暗くなってしまった例です。
これこそ増改築の落とし穴。新築と違って「必要な時に、必要な部分だけ」という安易な考えが、場当たり的な計画を生んでしまい、結果として無計画な増築を許してしまったという流れになります。
増改築を繰り返して、行き詰ってしまった家は、私の知る限り住みにくいことこの上ありません。間取りも最悪で、両隣に増築された奥の部屋、間の部屋には陽も入らないし風通しも望めません。その結果暗くてジメジメした部屋が自ずと増えていく結果が待っています。
それもそのはずです。見えないところでは、柱や基礎が腐り始めているのです。配管も必然的に入り組んでくるので、汚水が詰まったり、パイプが割れて床下に汚水が溜まっている家もありました。
そうはいっても、何度も増築した家ならば、それなりに広々しているのだろうと思いきや、そんなこともありません。私の知り合いで、既に子どもたちが独立し、大きな家で夫婦二人暮らしというお宅では、「狭い」とおっしゃいます。
観てほしいと言われるので、拝見させていただくと、意外や意外なことに、日常の生活スペースは増築で増えているどころか、かえって狭くなっているではありませんか。
南側の新しい部屋こそ頻繁に使われているようですが、北側の古い部屋はほとんど閉めっきりで、物置同然。見れば息子さんや娘さんたちが残していったガラクタでいっぱいではありませんか。まだ気の利いた家の物置ならば、出し入れや風を通したりしてましなくらいです。
さらによく調べてみると、最初に建てた時の小さな家の姿が微(かす)かに見えてきます。子どもが誕生したり、成長するごとに、少しずつ前へ、横へと増築してきたのでしょう。何十年という時を経て成長してできた巨木を切ったときの年輪のようにも見えてきます。
これは、家族の歴史としてはなかなか感動的な光景なのかもしれません。家族の年輪は、思い出深いわが子の成長期に他なりません。ですが、私としては、やるせなく、切ない気持ちで一杯になってしまうのです。家族の年輪というのは、同時に過去の「残骸」でもあるからなのです。
人生八十年代を迎えた今、これから二十年も三十年も生きていかなければならない親たちが、そんな抜け殻のような家に閉じ込められてしまってよいものでしょうか。
胸に手を当てて、よく考えてみてください。親が子育てをしながら暮らす時代は僅(わず)か二十年。子どもの数が多かったり、なかなか独立しなかったりしても、三十年もたてば大抵、家を離れていくものです。
そしてその後、夫婦二人で暮らすながい、ながい時間を迎えまず。その長い老後の時間をどう生きるか。それこそが、ほんとうは今、もっとも大切な課題なのではないでしょうか。
我が家の増改築は、子どものためのものではありません。あくまでも自分のため、自分たち夫婦が快適に暮らすためにすべきものだと思っています。無駄な出費をして後悔しないためにも、ほんとうに有効なリフォームとは何か、真剣に考えてみることを心からお奨めいたします。